フィリピンにフグ提灯はあったのか?国民的英雄の小説から辿った話

フグ提灯はフィリピンにあった?リサールの小説から辿る日比の繋がり

先日、チノイ(中国系フィリピン人)の友人アリエルの家で夕食をご馳走になりました。

アリエルはフィリピンを代表するPRエージェンシーに長年勤め、定年退職した今も食や歴史への知識が深い人です。そんな彼の家のテーブルを囲みながら、私たちはいつの間にか話し込んでいました。

「フィリピンの文化って、日本人どころかフィリピン人にもあまり知られていないものがかなりあるよな」

私がこのブログを書いている理由——ただのトリビアを並べても日本人には伝わらない、何か共通点を見つけなければ、という話をしていたときのことです。夫がふと言いました。

「そういえば、日本ってフグ提灯とかあるって本当?ぼく『ノリ・メ・タンヘレ』でフグ提灯みたいな話を学校で読んでさ。19世紀の小説に日本にもある提灯繋がりの話が出てくるって、面白いなって思って」

思わず声が出ました。

「あるよ。私、子どもの頃に持ってたもん」


目次

リサールが宴会場に「吊るした」もの

話の発端となったのは、リサールの代表作『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』の第1章です。1887年にベルリンで出版されたこの小説は、スペイン植民地時代のフィリピン社会を鋭く風刺した作品で、現在もフィリピンの高校で必修とされています。

第1章「Una Reunión(宴会)」は、マニラのビノンドに住む富裕なフィリピン人カピタン・ティアゴが開く晩餐会の場面から始まります。リサールはその部屋の飾りつけをこう描写しています(スペイン語原文より)。

「中国の立派な提灯、鳥のいない鳥かご、水銀ガラスの球、枯れた空中植物、乾燥させて膨らんだ魚——ボテテスと呼ばれるもの……」

一見ただの内装描写に見えますが、直前にリサールはこう書いています。「この家の悪意ある主人は、宴席に座る客の性格をよく知っていた」と。

つまりこれらの飾り物は、招待客そのものを暗示しているんです。

飾り物象徴するもの
鳥のいない鳥かご魂を失った人間
枯れた空中植物虚飾にしがみつく人間
乾燥したボテテス(フグ)中身は空っぽなのに膨らんで威張る人間
ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)の第一章より。パーティーの様子のイメージ。
ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)の第一章より。パーティーの様子のイメージ。

さらにこの直後、壁に飾られた肖像画が「私がどれだけ着飾って、いかに威厳があるか見よ!」と言わんばかりに描かれており、植民地支配のもとで虚栄を競う上流社会への皮肉が畳みかけられています。

ライアンが言っていた「フグの習性にかけた風刺」は、こういう意味だったんですね。

すごいのは、こういう人たちが、いまだにたくさんいるっていう事実…。
フィリピンに住んで中流から上流の家庭を目にしたことがあるならば、ホセリザールのこの小説が結構刺さるんですよ。
全然内容が古くない!今のフィリピン人の話と同じじゃん!って。


フグ提灯は日本だけのものではなかった

夫の「フグ提灯って実際にあるの?」という疑問に話を戻しましょう。フグ提灯の歴史は日本だけにとどまりません。イギリス・オックスフォード大学のピット・リバース博物館には、1883年制作の中国製フグ皮提灯が所蔵されています。同じく日本製のフグ提灯も1909年に収蔵されており、どちらも19世紀には実在した工芸品です。

アメリカのセントルイス・サイエンスセンターの記録によれば、「1900年頃にはフグ提灯を作ることが日本で一般的な慣習となっており、他の太平洋諸島の国々にも同様のランタンが存在した証拠がある」とされています。

フグを乾燥させて膨らんだ状態で固め、中にろうそくを入れると光が透けて幻想的に光ります。日本では子どものおもちゃ、民芸品、土産物、そしてふぐ料理店の看板として長く使われてきました。

私が子どもの頃に北海道で持っていたものも、まさにそれでした。


北海道のおばあちゃんと、あのフグ提灯

子どもの頃、北海道の当別町に住んでいました。町営団地の裏に古い豪邸があって、そこにトシさんというおばあちゃんが一人で暮らしていました。

知り合ったきっかけは、庭への迷い込みです。柵がなかったので、遊んでいるうちにいつの間にかトシさんの庭に入ってしまって。そこで声をかけてもらったのが最初でした。

それからちょくちょく遊びに行くようになって、トシさんは会うたびに何かくれるんです。自分で作った日本人形、昭和初期の女学生と男子学生の形をした古いこけし、骨董品みたいなものがわんさかある家でした。「若いのに変な趣味のある面白い子だね」といつも笑っていました。

フグ提灯もそのうちのひとつです。どこかのお土産屋さんで買ったものをとっておいてくれたのだと思います。大きさはドッジボールより少し小さいくらい。トゲはなく、丸くてつるりとしていました。ただ口の部分だけが異様で、上下2枚の板状の歯がガチリと重なっていて、母が「気持ち悪いじゃあー」と言って触ろうとしませんでした。

今思えば、あのころトシさんは身の回りの整理をしていたのかもしれません。その後息子さんが経営する病院の2階に引っ越されて、しばらくして亡くなりました。昭和初期のこけし、もっととっておけばよかったと今でも思います。


ビノンドの中国人商人がマニラに持ち込んだ

ではなぜ19世紀のマニラにフグ提灯があったのでしょう。

答えはほぼ確実に、ビノンドの中国人商人(サングレイ)経由です。

ビノンドの中国人商人(サングレイ)
ライアンのひいお爺さんもこういう服装に髪型をしていたそう。ラーメンマンみたいなあの髪型です。

スペイン植民地時代、マニラの城塞都市イントラムロスの外側には「パリアン」と呼ばれる中国人居住区がありました。現在のビノンドがその流れを汲む地域で、福建省からやってきたホッキエン系商人たちが集住し、マニラの物流をほぼ掌握していました。うちのライアンのひいお爺さんも福建省からきた中国の人たちでした。

ガレオン貿易(マニラ〜アカプルコ間の太平洋貿易)で運ばれた荷物の9割以上が中国産品とも言われており、陶磁器・絹・漆器・象牙細工から装飾雑貨まで、ありとあらゆるものがパリアンを通じてマニラに流れ込んでいました。

スペイン植民地時代の影響はこういう場所にも残っています。たとえばネグロス島という名前の由来も、この時代のスペイン人の命名がそのまま残ったものです。

リサールが第1章でボテテスを描写するとき、「中国の提灯」と同じ文の中で並べて書いているのはこのためです。どちらも中国人商人が持ち込んだ輸入装飾品として、当時の富裕層の家に普通に並んでいたのでしょう。

そして今夜、そのビノンドで生まれ育った、チノイの友人アリエルの家で、私はこの話を聞いたわけです。


一匹のフグが結ぶ、日本・中国・フィリピン

夫にスマートフォンで古いフグ提灯の画像を見せました。「これ、子どもの頃持ってたやつとほぼ同じ」と言ったら、夫はしばらく画面を眺めてから「なんか不思議だな」とつぶやきました。

19世紀のマニラ、カピタン・ティアゴの宴会場の天井には、これと同じようなボテテスが吊るされていました。リサールはそれを風刺の小道具として使い、中身のない威張りを笑いました。その同時代、日本と中国でも職人たちが同じ魚を乾燥させて提灯を作っていました。

北海道のトシさんがどこかの土産屋で買ったフグ提灯は、ずっと長い歴史と交易の記憶を背負っていたことになります。

こういう「意外な日比の繋がり」は、食の世界にも顔を出します。フィリピンのハロハロも、実は日本のかき氷が起源という説があるほどです。

子どもの頃の私には、そんなことは何もわかりませんでした。フィリピンで暮らして13年以上経った今、夫の何気ない一言から、ここまで辿り着きました。

フィリピンの文化には、日本人どころかフィリピン人にも知られていないものがある——アリエルが言っていたのは、こういうことだったのかもしれません。


参考:ホセ・リサール『ノリ・メ・タンヘレ』第1章(1887年)/ピット・リバース博物館ブログ「A Toxic Fascination: Pufferfish in Japanese Art and Culture」(2022) https://pittrivers-object.blogspot.com/2022/06/a-toxic-fascination-pufferfish-fugu-in.html

Kumiko Sato
✍ Author
Kumiko Sato

フィリピン在住の日本人ブロガー。文化・食・日常生活をテーマに、日本とフィリピンのあいだにある歴史や文化のつながりを紹介しています。
フィリピン人の夫とカビテ州アマデオで暮らしながら、海外生活のリアルを記録しています。

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