バランガイ調停とは何か
フィリピンで近隣トラブルが起きたとき、最初の相談窓口になるのがバランガイです。
日本の感覚だと警察や法的機関に相談するイメージがありますが、フィリピンでは同じバランガイ内の住民間トラブルは、まずバランガイの調停(Katarungang Pambarangay)を経ることが原則とされています。地方自治法(RA 7160)に基づいたこの制度は、正式な司法手続きの前に地域で解決を図ることを目的としています。
私は先日、初めてこの調停に参加しました。そこで実感したのは、「事前に知っておけばよかった」ことがいくつもあったということです。
「来やがったな!」——呼び出し状が届いた日
呼び出し状が届いたとき、正直「来やがったな!」と思いました。
夫婦でずっと話していたんです。「向こうから訴えを起こしてこないかな」と。
というのも、こちらからアクションを起こすつもりは最初からありませんでした。夫のライアンは強い人です。でも、犬の管理もできていない人たちに言いがかりをつけられ、罵られ、実際に叩かれた夫を見ていた私は、妻として本当に辛かった。それでも「絶対にこちらからは動かない」と決めていました。
証拠はこちらにある。バランガイで場が設けられれば、それらを堂々と出せる——そう思っていたのです。
とんだ間違いでした。
時間通りに行ったら、誰もいなかった
申し立ての内容は「犬への虐待」でした。
2026年6月4日の夕方、ライアンが犬の散歩に出たとき、近所の犬が私たちの犬に噛みつきました。ライアンは手に持っていた杖を犬の方向に向けて追い払おうとしました。その直後、近隣住民が近づいてきて、ライアンを手で叩き、シャツをつかみました。
相手側の主張は「ライアンに殴られそうになった」「不法侵入をされた」というものでした。
私たちにはCCTVの映像がありました。実はこのカメラ、家の角の外を映す画角のものを追加するかどうかでライアンと意見が食い違っていたのですが、つけておいて本当に良かったと思っています。タイムスタンプ付きの映像には、一連の場面がすべて記録されていました。そこに映っていたのは、訴えの内容とは逆の状況でした。
当日、時間通りにバランガイに行ったら、誰もいませんでした。
外ではバスケットボールの試合が真っ最中で、ものすごく騒がしい。肝心の職員たちはその試合に夢中で、オフィスは空っぽでした。仕方がないので、私たちもぼーっと試合を眺めながら待つことに。
40分ほどして、キャプテンがのそのそやってきました。遅刻の謝罪はありませんでした。
座席と、最初の違和感
部屋に入ると、相手夫婦、私たち夫婦、そしてキャプテン。証言のためについてきてくれた近所の友人は、外で待たされました。
最初に違和感を覚えたのは、座席でした。オフィスにはソファがあって、私はそこで話し合いが始まるものだと思って座っていたのですが、フィリピン人たちはそこから離れた場所にプラスチックの椅子を並べて話し始めたんです。私には声がかからなかった。タガログ語が十分にわからないから、ということなのかもしれない。でも結果として、私だけ蚊帳の外に置かれた形になりました。
タガログ語がわからなくても、キャプテンがあちら夫婦の肩を持っていることはわかりました。論点がずれている。証拠を見ようとしない。夫の話を遮る。
部が悪い試合だと思いました。
後から、パラリーガルである義父に話を聞いて、これが「違和感」ではなく「違法」だったことを知りました。バランガイ調停のルールでは、キャプテンは中立でなければならない。そして参加できるのは各側の代表者1名のみ。キャプテンはそのルールを知っていたはずです。それでも相手の夫を同席させた。
バランガイは「裁判所」ではない
ここで理解しておく必要があるのは、バランガイの調停制度の本来の目的です。
バランガイキャプテンは裁判官ではなく、法律の専門家でもありません。「誰が正しいか」を判断する場ではなく、「争いをこれ以上大きくしないこと」が目的の場です。証拠を精査するのではなく、双方が合意できる着地点を探ることがキャプテンの役割です。
私はCCTV映像と写真に加え、2025年9月以降に記録してきた被害の記録——猫の死亡、犬の接近、私たちの犬へのケガ、そして近隣の犬が群れに噛み殺された際の記録と証言——を整理して持参しました。しかし調停の場では、これらが参照されることは一切ありませんでした。
持っていく価値はあります。ただし「証拠で白黒つけてもらえる場」だとは思わないほうがいい。
「不法侵入」という論点のすり替え
調停が進む中で、申し立ての焦点はいつの間にか「犬への虐待」から「不法侵入」に移っていました。
主張はこうです——「杖を振った際、その先端が敷地内に入った。だから不法侵入だ」。
実際の状況を整理すると、ライアン本人は道路上にいて、敷地には入っていない。杖の先端が境界を越えた可能性がある、というだけです。
フィリピンの不法侵入(改正刑法第281条)は、人が他人の土地・施設に無断で立ち入ることを要件とします。道路上に立ったまま杖の先端が境界に及んだかもしれないという状況は、その要件を満たすとは言いにくい。
それでもキャプテンは「これはしっかりとした不法侵入だ」と言いました。
調停中に出た発言と、法律との乖離
今回の調停でキャプテンからいくつかの発言がありました。確認しておきたい点が二つあります。
「犬は自由に移動して問題ない」
「首輪の有無・管理状態にかかわらず、犬は自由に移動して問題ない」という趣旨の発言です。RA 9482(狂犬病対策法)は、犬の所有者にリードをつけるか敷地内に閉じ込めることを義務づけており、違反には罰則も定めています。この発言は国家法の規定と一致しません。
「犬が犬を殺しても問題ない」
「犬同士の争いに人間が関わっていないなら問題にならない」という発言もありました。フィリピンには動物福祉法(RA 8485、RA 10631で改正)があり、動物への虐待・放置には罰則が規定されています。管理下の犬が引き起こした被害を飼い主が免れるとは、法的に必ずしも言えません。
「被害者が加害者に交渉しに行く」という結論
最終的にキャプテンから出たアドバイスはこうでした。私たちは昼間の散歩時にリードをつけること。そして、今回初めて判明した犬の飼い主にライアンが自ら連絡をとって交渉すること。
訴えた側に訴えられた側が出向いて交渉する——この構造に違和感を感じた方も多いと思います。
また、今回の申し立ては「犬への虐待」でした。であれば、その犬の実際の飼い主が調停に出るべきではないか。出席していたのは長年「うちの犬じゃない」と言い続けてきた夫婦でした。
バランガイ調停の結果を左右するもの
フィリピンでのトラブルや安全については別の記事でも書いていますが、今回の経験を通じて感じたのは、バランガイ調停の結果は制度の内容だけでなく、誰と誰が対立しているかによって変わりうるということです。
バランガイキャプテンは、地域で選ばれた政治的立場の人物です。選挙のある時期には票田との関係が意識されやすく、地域に影響力を持つ人物との関係も、調停の場の空気に影響することがあります。これは特定のバランガイや個人の問題ではなく、制度の構造として理解しておくべきことです。
バランガイ調停に臨む前に確認しておくと役立つこと:
- 相手がその地域でどんな立場にいるか
- バランガイキャプテンとの関係性はどうか
- 自分たちにはどんな協力者がいるか
調停が不調でも、次の手がある
バランガイで合意が得られなかった場合や、相手が出席を拒否した場合、バランガイは「調停不調証明書(Certificate to File Action)」を発行します。この証明書があれば、地方裁判所(MTC)への提訴が可能になります。
バランガイは終着点ではなく、法的手続きへの入口です。
今回の調停で得た最大の収穫は、長年「うちの犬じゃない」と言い続けてきた犬たちに、初めて飼い主が判明したことでした。その経緯についてはこちらの記事で詳しく書いています。
「あれで良かったんだよ」——帰り道のライアンの言葉
話し合いが終わりに近づいた頃、ライアンが「OK na kami(僕たちはそれで構いません)」と繰り返していました。
優しすぎるところがある人なので、割に合わない条件に全部OKしてきたんじゃないかと、私はかなりピリピリしていました。
車を止めた場所まで、付き添ってくれた友人と3人で歩きながら、ライアンが言いました。「あれで良かったんだよ」。
良かった?完全にこっちが不利だったんじゃないの。
「あれはパワートリッピングで、出来レースみたいなものだった。バランガイ調停には何の権限もないし、法的拘束力もない。問題を法的な場所に持っていく前に収めようっていう、それだけの場だから。
でも、出て良かった。相手の家族が所有している犬だということが、初めて記録されたんだから。彼らの関係性も、全部わかった。どんなルールでプレイするかを知ることは大事だよ。
そして一番大事なのは——僕らは何もしなくていいってこと。今日の結果はどうでもよくて、次の手を考えることができるんだ。」
私のピリピリは、すっと消えました。

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